フィクションとしてあるために

仕事をけっこう後輩に引き継いだとはいえ、その引き継ぎがぜんぶおわったわけじゃないし、あとぼくが「お人よし」過ぎるせいか、残業時間が前とそんなに変わらない。

はやく帰って子どもと遊んだり、本を読んだり、小説を書いたりしたいのだけどなかなかどうしてそれができない。仕事をしながら小説のことを考えることはしんどい。まわりのひともそんな方ばかりで、それができないことは単に甘えだとおもいつつも、そのことだけを考えなくちゃなにもできないじぶんがとても嫌だ。

 文學界新人賞の受賞作を2作よんでみた。

五段階で個人的な評価を出していますが、あくまでぼくの好き嫌いだけの話です。

 

大学を卒業し自衛隊に入隊した主人公が、演習場を目指す行軍のなかにいる。小説はこの移動のなかの主人公の意識をたどった形になり、現実と回想、幻影が混交していく。主観的な視点から小説が書かれ、緻密に描写されるひとつひとつの場面に重みがあって、現実を浸食していく記憶や幻影がかえって現実の色を強くする。良く書かれているるなぁと関心はするけれど、ただそれ以上におもうことはなくて、おもしろいのはおもしろいのだけど、この小説という空間のなかでだけ機能し、この小説のなかだけで初めておもいいたれるものを、ぼくは見いだせなかった。

あたりまえだけど、小説はフィクションだとぼくはおもう。

しかしフィクションとリアリズムは、相反するものではないともぼくはおもう。

ある程度のまじめさを持って小説を読んだり書いたりするためには、個人レベルでこの「フィクション」や「リアリズム」の定義というものをもっていなければならないような気がしてならない。

ぼく個人のそれをここでいうことはあえてしないけれども、この小説にはそれがないようなきがした。自衛隊の隊列のなか、そのなかにある青年の意識の流れという特有の空間が一見して作られているように見えるけれど、その空間が十全に機能していたかと問われると疑問だった。

「記憶や幻影が現実を浸食する」という構造をとりながら、それらが「既存の現実」に回収されてしまったということが、ある意味でこの小説最大の失敗だったようにもおもえてならない。なんというか、ぼくらが生きる世界の物理を逸脱しても、それをリアルと信じることは可能なんだとおもう。小説でいうリアリズムは、現実世界の常識とはまったく関係がないはずだ。

こっちの小説は「市街戦」とは対称的に、作者個人のなかでフィクションが強く自覚されていて、「ひとが生まれてから死ぬまですべての日(100年分)の写真」というワンアイデアを力技で完結させた作品だった。発想はとてもよかったとおもうけれど、致命的なまでにこのフィクションにリアリズムを与えるための思想が欠如している。すごく単純な話だけど、ひとの一生分の写真が目の前にあるという途方の無さ、重さ、そういうものがこの小説には一切ない。

ひとの100年分の写真がほんとうに目の前にあるならば、それについて語ることばをいかにして持てばよいのかという問題が、ぼくの場合だとどうしてもぶちあたってしまう。見ればどうしてもその人の人生というものが、勝手に立ち現われてしまって、その写真集をみるものに対してことばというものが不要になってしまう。小説の体裁として、写真集の解説という設定にはなっているけれど、はたしてこの写真集がほんとうに実在するなら、精密な調査なく編集者の想像でのみ書かれた被写体の物語なんてはたして付けるだろうか?

ひと100年分の生まれてから死ぬまでの写真というものを作り上げようとした努力はすごくみられるけれど、「その写真全てがいま目の前にある」というリアルに対してあまりにも無頓着じゃないか? とおもった。

 

最近の雑感

あるときの確信が揺らいでしまうきょうでありいまという瞬間が、たえがたくて生きにくいと感じることがふえた。大学院の博士課程に進学を決めたときにそういう実感が日々のなかに現れはじめ、くしくもそれは「なんとなく」という理由から小説を書きはじめたときでもあった。

やがてぼくは研究者になることを完全にあきらめ、それからは我流で続けてきた小説を書くという夢や目標でない「行為」だけが残って、それを続けることでだれもしあわせにはできないし、そもそも、生きるにおいて捨てなければならないものを選ぶのであれば真っ先に捨てなければならなかったそれを手元にかろうじて残した。結婚し、職に就き、子どもが生まれた。生活の変化のなかでもなんとか「書く」という行為にしがみついてきたものの、完成を見ない支離滅裂な文章だけがパソコンのハードディスクに詰め込まれていくばかりで、見かけではなにも前に進めていない、むしろ、後退しているような気がしてならない。

すこしでも前進しようとおもって、このまえ、むかし書いた小説をすこしだけ改稿して文学賞に応募してみた。なにも期待してはいないけれど、ただなにかの結果を待つという状況を常に作り続けないと、もう二度と小説のことを考えられないような気がしてそれがこわい。