面白いことをしている人が面白いことの必要性
人格を侵食する「才能」
あんまり好きなことばじゃないけど、いわゆる「才能」というものは世間一般にその実在を共有されているようで、それというのはとても凶暴におもえる。
たとえば文章や音楽といったあるひとをかたちづくるなにかひとつで突出した「才能」が世間に発見されたとき、そのひとが才能を発揮する作品を離れてもなお突出した才能と同レベルの「おもしろさ」がもとめられがちだ。
破天荒な文章を書くひとは破天荒な私生活を、優雅な音楽をするひとは優雅な私生活を、作品を介してでしか接点を持たない不特定多数の大衆がイメージをつくり、作品をつくったひとが「そうである」ことをどこかもとめている。
不思議なのはここからで、そしてもしそのひとというのが「そうでなかったとき」だ。
つまり、
「破天荒な文章を書くひとが生真面目で退屈な生活を送るひと」
だとわかったとき、多くのひとは「あんな破天荒なことをするのに平凡なひと」というギャップをおもしろいとみなす。ぼくはこれが気持ち悪い。
なんだかまるで、ある才能を持ち合わせたひとが「ふつうである」ということを許されていないみたいで、まるで才能が人格すべてを侵食していくような暗い凶暴性をかんじる。なにかものをつくるという仕事をしたひとが、その仕事だけでなく存在までもエンターテイメントであらなければならず、ものすごいスピードでしらないひとに消化されてしまうような。
そう考えると、ひとそのものがおもしろくない、ということは「安心」につながる。というより、「おもしろくないことを認める」ということはすごく健康的?みたいな。
どうしてなにもかもがおもしろいということを望むのだろう、とはいいつつも、ぼくの好きな番組は情熱大陸だし、好きなホームページはwikipediaだったりするので、それもまた困りごとだったりする。なんだ、この矛盾する感情!