アイデンティティーと合理化の暴力

ブログでも雑誌でもなんでもいいのだけれど、文章を書いていると文章じゃなくてその背後の人物像を探ろうとする動きがぼくには気持ち悪くおもえてしまう。じぶんでもやってしまうことがあるけれど、たとえば文章を読んで「このひとは◯◯が好きそうだなあ」とか、そういう他愛のない決めつけが。

じぶんはとくべつだ、とおもうこととおなじくらいのつよさで、あいつはとくべつじゃない、みたいな判定を互いにしあって、交友関係の地図に明確な線をひきたがる。なんというか、そういうのってひたすらな合理化みたいなつめたさをかんじるし、ちょっとまえにバズワード(!?)になった「断捨離」なんてことばがその思考のさいたるものにおもわれた。それについては話がかなり脱線してしまうのだけど。

 

テクストとペルソナの距離

ともあれ、どうやら文章は書き手の人格とセットで価値付けがなされるらしい。

とくにさいきんのウェブメディアは書き手と読者の距離が異様にちかくなって、さらにテクストとペルソナの一致が求められているような気がする。ぼくにとって、書き手の「こうでありたい」なんてけっこうどうでもいい。それどころか、詩も小説も日記も、そこから書き手の名前がなくなってしまったらいいのにっておもう。だれそれが書いた、という枕詞から解放された文章はいちばん楽しいのも苦しいのもぜんぶひっくるめて生き生きしているし、増田を読むとそういうことをかんじる。

特定のだれかの手から離れた主義主張の切実さや滑稽さには名前を持っている限り届かないんじゃないか? その場だけでかろうじて瞬間的に形成され、そして消えてゆく一過性のペルソナ。そういうものに太刀打ちできるだけの文章をぼくは書きたいってつくづくおもう。

 

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書くという行為と「孤独」

文芸誌とか読んでいると、小説を書くという行為を「孤独」とダイレクトに結びつけて言及しているものをよくみる。果ては「小説家は孤独か?」ということが論じられたりするのだけれど、ぼくはそういう考えが嫌いだ。

書くことが孤独に直結して論じられるのは、おそらくペンの問題だろう。かつて「書く」ということは紙とペンを持って、ひとりによってなされるものだった。いまもむかしも回避しようがないくらい、誰しもが社会のなかに存在してしまう。しかし、なにかを書き、その過程で思考するという行為を媒介とすることで、ひとは一時的にも社会から離れることができる。そういう状態を「孤独」と呼ぶのはわかる。ただ、問題はそれがいまの時代にあったものなのかということが引っかかる。

そういうことを考えるきっかけになったのが、インターネットであり、SNSだ。

たとえばTwitterのタイムラインに、ときどき本を超えたおもしろさを感じることがある。ラピュタ金曜ロードショーで放映される日の「バルス」なんかがそうだけれども、無数の書き手がバラバラに独立して存在しながらも、ある種の統一的な思考を持った振る舞いを行う。そして現実に「Twitterの同時大量投稿によってサーバーが落ちた」なんて現象が引き起こされるのだけれど、その主犯の実態というものはない。ぼくらが(少なくとも「ぼくは」だけど)おもしろいとかんじるものは、テクストであっても現実に起こることであっても、正直どっちでもいい。なにかがあって、そのなにかにはなんらかの思考が確かに存在していて、それに触れることに対しておもしろいとかんじる。それは書き手のアイデンティティによってもたらされるものなんかじゃないし、テクストが現象として書き手の手を離れ、独立した「なにか」として引き起こされる。

そこに「書き手」や「孤独」といった概念が必要なのだろうか。

あらゆるひとが文章が集まる場を行き来しながら、意図せずに集団的な何者かになることができてしまう現代において、「ユニークな書き手」とか、そのアイデンティティを切実なものとして捉えること(=「孤独」)とかに、未だにこだわっているのはあまりにも時代遅れだ。たぶん、書き手というものの存在の価値というのは商業的な合理性以上の意味を持たないとぼくはおもう。それはそれ以上でも以下でもなく、これ以上こういうことを考えても仕方がないんじゃないか。